【史実回想】府中に輝いた一等星 アドマイヤベガ #010

ウマ娘

こんにちは。

先日のアンケートへのご協力ありがとうございました。記事作成の参考にさせていただきます。

そして今回は新しく【史実回想】ということで1頭目、アドマイヤベガの紹介をしたいと思います。

短い時間ながら残した蹄跡は、間違いなく一等星の輝きでした。

◆ 競走生活(1998/11~1999/11)

アドマイヤベガ
生年月日1996年3月12日
両親父:サンデーサイレンス
母:ベガ 
性齢牡8歳 没
デビュー1998年11月7日
引退レース1999年11月7日
菊花賞
競走成績8戦4勝
獲得賞金中央:2億9060万
GⅠ実績1999年:日本ダービー
現在―――――――――

まず最初に、デリケートな話題に触れる必要があります。これは「ウマ娘」のカテゴリー記事になるので、公式のキャラクター設定に触れる必要があるからです。一応「閲覧注意」とします。

ウマ娘・アドマイヤベガ

公式サイトボイス:「1人で戦って…1人で勝つの…

   

母親であるベガは無事にサンデーサイレンスの子を受胎しますが、不幸にもそれは双子でした。競走馬は「双子で出産すると高い確率で不幸な結末をたどるか体質の弱い子が生まれる」と言われます。

子どもはおろか、最悪の場合は母馬まで不幸な結末になる可能性があるため、このような場合は生まれてくる子どもが1頭になるように処置を施すのが一般的です。(双子出産の例はありますが、少数かつ活躍はしていません)

   

これは母体となる母馬がお腹の子どもに送ってあげられる栄養に限りがあること、そもそも双子を宿すような作りになっていないことが理由として考えられます。

そうして1頭生まれたのがアドマイヤベガでした。キャラクター設定はここからでしょう。

   

新馬戦は3歳の11月。前評判の高さもあり単勝1.7倍に支持されたアドマイヤベガは、中団で脚を溜め残り200mで信じられないほどの剛脚を繰り出し1着でゴール板を通過します。

しかし仕掛けてすぐに内側に斜行してしまったことが審議対象となり、最終結果は4着降着。ほろ苦いデビューとなりますが、能力を確信した陣営が次走に未勝利ではなく格上挑戦のエリカ賞を選択すると、単勝1.2倍と圧倒的人気に応えて優勝。見事初勝利を飾ります。

その後はGⅢラジオたんぱ杯を優勝し、クラシックへの賞金を着実に積んで翌年を迎えます。

   

4歳シーズンの始動戦は弥生賞。皐月賞を見据えた同舞台の前哨戦で、単勝1.5倍と抜けた1番人気に推されます。相手はGⅢきさらぎ賞を勝ってきたナリタトップロードでしたが、このナリタトップロードに先に抜けだされると、追い込み切れず2着と敗れてしまいます。

迎えた皐月賞も直前で体調を崩してしまい-12kg。レースでいつも通り追い込みますが、本来の剛脚は鳴りを潜め6着と敗戦。優勝したのは後の世紀末覇王ことテイエムオペラオーでした。

   

そして日本ダービー。初めて2番人気に甘んじますが、体重を戻し体調は良好。オッズは完全に割れナリタトップロード3.9倍アドマイヤベガ3.9倍テイエムオペラオー4.3倍と3強を形成。最後の直線ではこの3頭の争いになりますが、これを制し優勝。ダービー馬に輝きます。

   

その後もクラシック路線を歩み、京都新聞杯1着を経て菊花賞に臨みますがここはナリタトップロードが悲願のGⅠ制覇を果たしアドマイヤベガは再度の6着。世代3強でタイトルを分け合う形で、クラシックは幕を閉じます。

しかし、この菊花賞はアドマイヤベガの引退レースに。休養の後に復帰戦へ調整が進む中で繋靭帯炎を発症デビューからわずか1年という短い時間で、その競走生活を終えることになりました。

   

引退後は種牡馬として活躍していましたが、2004年10月29日に偶発性胃破裂でこの世を去ってしまいます。その馬齢は8歳と非常に若く、残した2002年~2005年産駒の4世代からは桜花賞馬キストゥヘヴンなど重賞馬も多く生まれ、大変惜しまれました。

◆ 神の手に導かれた日本ダービー

1999年の日本ダービーを調べていると、武豊騎手の好騎乗を称賛する記事を多く目にします。後方待機で脚を溜め、大外一気で優勝。見事に勝ち切ったその騎乗に対し、メディアに踊った見出しが

「神の手」

これをどう受けるかは、実際のレースを見ないと判断がつかないでしょう。ということで興味のある方は以下からご確認ください。

   

このレースを回顧するには、いくつかの予備知識が必要になります。この日本ダービーで史上初のダービー連覇を果たす武豊騎手ですが、そもそもダービージョッキーになったのは1年前の1998年。もうお分かりですね?

そう、スペシャルウィークで優勝した日本ダービーです。

当時の武豊騎手は29歳。他の名だたる大レースは軒並み制していただけに、「武豊が日本ダービーを勝てない」のは競馬界の七不思議とまで言われていました。そんな呪縛とも言える七不思議に終焉をもたらしたのがスペシャルウィークだったのです。

馬名性齢人気着順タイム差(秒)
1998スペシャルウィーク牡411-0.9
1997ランニングゲイル牡425+0.4
1996ダンスインザダーク牡412+0.0
1995オースミベスト牡438+0.7
1994フジノマッケンオー 牡4 54+1.2
1993ナリタタイシン 牡4 33+0.3
1991シンホリスキー 牡4 619+4.1
1990ハクタイセイ 牡4 25+0.6
1989タニノジュニアス 牡4 710+1.6
1988コスモアンバー 牡4 1616+1.9
※武豊騎手の日本ダービー過去成績

この前年に日本ダービーを優勝していたことが、並大抵の心臓では実行すら躊躇される「日本ダービーでの後方一気」を実現させたのは間違いないでしょう。(ダービー未勝利ならもう少し前で進めたと考えるからです

   

また、この日本ダービーは経験の差が着順に出たレースと見ることもできます。というのもテイエムオペラオー鞍上の和田騎手が21歳、ナリタトップロード鞍上の渡辺騎手が24歳だったのです。

日本ダービー騎乗回数で言えば和田騎手が1回、渡辺騎手は初。それでいて優勝争いを演じるのですから大変立派だとは思いますが、これに対し武豊騎手は30歳で10回騎乗の1回優勝。積み上げた経験値が違います。

   

それが目に見えるのが残り300mの攻防。早目抜け出しを図る和田騎手ですが、斜め後方には渡辺騎手に武豊騎手がピッタリついています。

そして200mを切って渡辺騎手が先頭に立つのを確認してから、武豊騎手の鞭が乱れ飛ぶのです。

   

当然、この3頭は道中の位置が後ろであるほど着順が上になっているので、展開と言えばそれまでです。

しかし、その展開を読む力も込みで武豊騎手に圧倒的な経験値のアドバンテージがあったことが、仕掛けの我慢すなわち「神の手」に繋がったのだと私は思います。

   

おまけ話をすると、この前週のオークスでは逃げた1番人気のトゥザヴィクトリー(武豊)を7番人気のウメノファイバー(蛯名正義)が後方一気の脚でハナ差捕まえるということがありました。

これを受けてなのでしょう。アドマイヤベガで日本ダービーを制した武豊騎手が、レース後の蛯名騎手に対して「お前の真似して勝ったよ」と話したエピソードが残っています。本当に負けず嫌いですね。

   

数多のレースで凌ぎを削ったお二人ですが、蛯名騎手は今や蛯名調教師武豊騎手も50歳を越えており、あまり時間はないでしょう。願わくば、蛯名調教師の管理馬で大舞台を制する武豊騎手。そんな光景を見れればと切に思います。

◆ まとめ


いかがだったでしょうか。楽しんでいただけたなら幸いです。

   

今回はちょっと長く語ってみました。もう20年も前のレースですが、こういう書き方をしてみると少し興味が湧いたりしてきませんか? 私は面白くて大変に好きです。

そして改めて見ると、オペラオーは4歳時代も強いですね。現役通して弱い時期がないと言いますか。

三冠馬にもなれたのではないか、というのは菊花賞後の竹園オーナーのお怒り話ですね。こちらはまた別の機会に。

   

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

コメント

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