こんにちは。
先日のアンケートへのご協力ありがとうございました。上位から順番に書いていきましょうね。
ということで今回は【史実回想】2頭目、ミスターシービーの紹介をしたいと思います。
全てを飲み込む豪脚は、過去に類を見ない実に大味な競馬でした。
◆ 競走生活(1982/11~1985/04)
ミスターシービー | |
生年月日 | 1980年4月7日 |
両親 | 父:トウショウボーイ 母:シービークイン |
性齢 | 牡21歳 没 |
デビュー | 1982年11月6日 |
引退レース | 1985年4月29日 天皇賞 春 |
競走成績 | 15戦8勝 |
獲得賞金 | 中央:4億959万8,100円 |
GⅠ実績 | 1983年:皐月賞 1983年:日本ダービー 1983年:菊花賞 1984年:天皇賞秋 |
現在 | ――――――――― |
1980年に生を受け、父はTTG時代を築いた天馬ことトウショウボーイ。母はそんなトウショウボーイと新馬戦を共に走った重賞3勝馬シービークイン。
幼駒の頃から評判の馬で、牧場を代表する馬になって欲しい願いからミスターシービー命名されています。(千明牧場→cigira bokujou→頭を取ってC.B→ミスターC.B)
デビュー戦では先行策で1番人気に応え快勝しますが、以降は追い込み戦法ばかり取るようになります。これはゲートの出に起因するもので、結果として追い込みになってしまうというものでした。
追い込みで大成した馬は当時いませんでしたが、ミスターシービーは続く条件戦も勝利。年暮れの次走こそ大変な出遅れで届かず2着に敗れますが、その後は共同通信杯に弥生賞と連勝を重ね、1番人気で皐月賞を迎えます。
皐月賞では後方待機も早々に進出を開始、3コーナーで中団につけると最終コーナーでは2番手の位置へ。最後の直線では抜け出すとそのまま後続を半馬身押さえ、クラシックの一冠目を勝ち取ります。
二冠目の日本ダービーも後方から。当時は20頭以上の出走頭数がいる関係で「1コーナーで10番手以内につけないと勝てない」とされていましたがこれを一蹴。いつも通り徐々にポジションを上げると、最後は粘る先行馬を捕らえ優勝。クラシック二冠を達成します。
しかし、このレースの終盤に他の馬との接触に加え斜行が行われたと審議が起こります。
審議の結果、ミスターシービーの優勝はそのままも、鞍上の吉永騎手は数日間の騎乗停止に加え優勝トロフィー剥奪。対戦した騎手はシービーの強さを認めるも、関係者やファンには優勝自体に疑問を唱える声も少なくなかったそうです。
その後は三冠を目指して休養に入りますが、怪我に夏風邪とスムーズに運ばず、前哨戦の京都新聞杯ではダービー+12kg。結果も勝ち馬のカツラギエースから大きく離れた4着と初めて3着以下に敗れますが、陣営は上向いていると悲観せず、そのまま菊花賞へ調整を進めていきます。
迎えた菊花賞。父も勝てなかった淀の舞台に距離不安も囁かれますが、19年振りの三冠馬誕生の期待を背に1番人気に推されます。そして、ここでも常識を覆す驚きの走りを披露することに。
菊花賞では最後にコーナーの下り坂があり、ここではスピードを落として回るのが常識とされています。理由はスピードを出せば遠心力で外に振られ、距離をロスし馬の制御も難しくなるからです。
しかしミスターシービーはこれを敢行し、下り坂の途中で先頭に立つとそのまま独走。結局後ろに対して3馬身差の圧勝で見事三冠馬に輝きました。
この騎乗には驚く声が非常に多く、このことを聞かれた鞍上の吉永騎手は「シービーが行きたがって行ってしまった。私は掴まっていただけだった」と話していたそうです。
しかしその後は休養や夏に怪我した蹄の状態悪化などが重なり、約1年レースから遠ざかります。
復帰戦は翌年秋の毎日王冠。ここは再びカツラギエースに逃げ切られ2着となりますが、三冠を制した豪脚は顕在であり、上り3Fは当時では破格の33.7を記録します。
このことから1番人気に推された次走の天皇賞秋では、最後方からいつもの競馬で全馬を抜き去り優勝。時計も新レコードと文句無しの内容で、以降はこの年に三冠馬となったシンボリルドルフとの、新旧三冠馬対決へと繋がっていきます。
1戦目ジャパンカップはシービー10着・ルドルフ3着。2戦目有馬記念はシービー3着・ルドルフ1着。そして大阪杯を挟んだ、引退レースとなる3戦目の天皇賞春ではシービー5着・ルドルフ1着と全敗。最後までルドルフに先着はできませんでした。
天皇賞春ではルドルフに対抗するため先行策を講じる予定でしたが、始まればいつもの後方待機。終盤には捲り気味に先頭へ立つシーンもありましたが、後から動いたルドルフに交わされ勝つことはできませんでした。
その後に骨膜炎を発症し引退しますが、雨が降りしきる引退式には多くのファンが駆けつけました。
引退後は種牡馬に。するといきなり重賞馬を複数出すなど上々のスタートを切り、期待から一時は当時最高額の種付け料にもなりますが、残念ながら後が続かず低迷します。
加えて同時期に輸入されるサンデーサイレンスを始めとした海外種牡馬の活躍も重なり、その後に種牡馬として脚光を浴びることはなく1999年で種牡馬も引退となりました。
◆ ミスターシービーについて

史上3頭目の三冠馬となるミスターシービーですが、菊花賞の後は天皇賞秋の1勝だけと寂しい戦績で、歴代の三冠馬の中では地味な評価を受けています。
しかしミスターシービー自体は大味なレースに整った馬体、惹き込まれる目と非常に高い人気を誇ります。加えて血統の側面でも日本競馬の歴史が詰まっており、通なファンからの支持も厚い馬でした。
・シンボリルドルフとの比較

まずはこれに尽きるでしょう。2年連続で三冠馬が出るという何とも贅沢な時代だったのです。しかも後に登場するのが皇帝シンボリルドルフ。シービーも復帰したら三冠馬がいるなんて思いもしなかったはずです。
しかも皇帝は強かった。1984年の有馬記念は1着シンボリルドルフ、2着カツラギエース、3着ミスターシービーと決着しますが、2着馬は日本馬初のジャパンカップ優勝馬、3着馬は前年の三冠馬と、決して楽な相手ではありませんでした。
ですが当時のルドルフには大差勝ちをしないよう指示が飛んでいたというエピソードが残っています。これは相手の馬それぞれが大きい看板を背負っているためであり、「必要以上に着差を付けることはない」という趣旨のものでした。
そして実際の着差は「2着に対して2馬身差、3着に対して更に1 1/2馬身差」という結果。これをどのように取るかは受け手次第ですが、ルドルフの力量が4歳時点で抜けていたことは間違いなく、そんな馬と比較されるシービーは運がなかったと言わざるを得ないと思います。
因みに、競走馬としての人気はシービー>ルドルフだったことをここに記しておきます。
・後方からの競馬を開拓

ミスターシービーが破ったジンクスから見えるのが「逃げ馬・先行馬の圧倒的優位」です。これは現代と違い様々なものが手探りであったため、馬の力に直結する結果が多かったことが理由に挙げられます。
「やっぱり強いのは強い」と言ったのは1999年宝塚記念の実況杉本清ですが、この言葉のように「強い馬が強い競馬をする」形になった場合に、前に行ったまま押し切ることが非常に多かったのです。
この流れの中で出遅れ癖があったとはいえ「後方からでも強い競馬ができる」ことを示したミスターシービーの功績は大きいものであり、以降の競馬に多大な影響を与えたのは間違いないでしょう。
・これぞブラッドスポーツ

さて、ここで今年の話題になっている「トウカイテイオー産駒」のお話です。現在乗馬から転身して競走馬として北海道競馬を走っているキセキノテイオー。ではない馬をご存知ですか?
そう、知る人ぞ知るクワイトファインです。
クワイトファインは「トウカイテイオー後継種牡馬プロジェクト」という、クラウドファンディングで集まったお金を元に種付けを行っている種牡馬で、トウカイテイオーの血を繋ぐために活動しています。
そしてこのクワイトファインの血統表がご注目。なんとミスターシービーとシンボリルドルフの両方が入っているのです。

因みに、ウマ娘2期1話の日本ダービーでトウカイテイオーと共に登場するシガーブレイドは、史実のシャコーグレイドがモデルです。そしてシャコーグレイドは父がミスターシービー。これがどういうことかというと
親同士だけでなく、子同士でも大舞台で対戦があるほどの縁が、このクワイトファインに詰まっている
ということ。面白くないですか??? 私はこれに気付いた時とてもテンションが上がりました。

また、この「トウカイテイオー後継種牡馬プロジェクト」は以下のTwitterで随時情報を発信されています。気になる方は以下から覗いてみてはいかがでしょうか。
クワイトファインプロジェクト様:@teamqf
◆ まとめ
いかがだったでしょうか。楽しんでいただけたなら幸いです。
ミスターシービーの日本ダービーを見返すと、本当に当時は後ろにいたらダメと言われる理由が分かります。単純に馬群が厚いんです。20頭以上がポジションを取りあう訳ですから、外を回すどころか後ろのまま終わってしまいそうですらあります。
あとは血統もあるんでしょうか。クラシックに外国産馬が出走できない縛りがあったので、内国産馬だけの構成。そして日本競馬は前で押し切る競走馬が大成し、血が残りやすい状態。後ろから行くような馬がそもそもいなかったのかなと。
そういえば、子どものシャコーグレイドも後方からの競馬を得意とする馬でした。血は争えませんね。
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
コメント
本物のシービーを見たのはまだ高校の時。これからもルドルフ、DI、オルフェを超える強い馬は沢山出てくるだろうが3冠がかかる出走でこんなドラマチックな走りができ、そして勝つ馬はもう到底出てこない。本当に記憶に残る3冠馬でした。