こんにちは。
今回は同室の話題ということで、オグリキャップ・タマモクロスを取り上げます。
ウマ娘ハーフアニバーサリーということで、私からはこの二人の話題をお届けします。
シンデレラグレイ好き。読もう。
◆ 競走生活
まずは、現役時代の成績などを確認しましょう。
オグリキャップ | タマモクロス | |
生年月日 | 1985年3月27日 | 1984年5月23日 |
両親 | 父:ダンシングキャップ 母:ホワイトナルビー | 父:シービークロス 母:グリーンシャトー |
性齢 | 牡25歳 没 | 牡19歳 没 |
デビュー | 1987年05月19日 | 1987年3月1日 |
引退レース | 1990年12月23日 有馬記念 | 1988年12月25日 有馬記念 |
競走成績 | 32戦22勝 | 18戦9勝 |
獲得賞金 | 中央:9億1,251万 | 中央:4億9,161万 |
GⅠ実績 | 1988年:有馬記念 1989年:マイルCS 1990年:安田記念 1990年:有馬記念 | 1988年:天皇賞春 1988年:宝塚記念 1988年:天皇賞秋 |
現在 | ――――――――― | ――――――――― |
タマモクロスが約10ヶ月先に生まれています。そのため1つ学年がずれており、オグリキャップが年下になります。
オグリキャップは第二次競馬ブームの中心ですね。笠松競馬から中央競馬へと挑み、平成三強に数えられるほどの結果を残します。
何より特筆すべきはその人気で、過去の競馬史を振り返ってもこれほどの人気を博した競走馬は限りなく少ないと思います。「競馬はあまり知らないけど家にぬいぐるみがあった」という方もいらっしゃるのではないでしょうか?
競走生活に関してはタマモクロス、スーパークリーク、イナリワン、などと激戦を繰り広げますが、晩年には「もうオグリは終わってしまった」と言われるほどの惨敗を喫します。
※ 社会現象を巻き起こしたオグリキャップへのメディアの関心が非常に高く、競走馬に対し無知な取材方法、体制がストレスの原因となり体調悪化、食欲不振へ繋がった結果とも言われる。
しかし、4番人気で臨んだ引退レースの有馬記念では激走。ゴール板を先頭で駆け抜け、涙の復活優勝で最後のレースを飾ります。地方から中央へ、激闘からの転落、そして復活優勝での引退。
その凄まじいドラマは、今でも色褪せることなく語り継がれています。

タマモクロスはよく使われる言葉「遅れてきた大物」になります。クラシックは菊花賞のみ間に合う可能性がありましたが、無理をせず回避。それが功を奏した結果、重賞6連勝(内GⅠ3連勝)を含む怒涛の8連勝と輝かしい結果を残します。
特に8連勝目の天皇賞秋は有名で、中央に参戦して無傷の重賞6連勝で臨むオグリキャップとの対戦。オッズもタマモクロス2.6倍、オグリキャップ2.1倍と拮抗していましたが、ここで近走から一転して先行策。見事にオグリキャップを退け優勝しています。
その後はジャパンカップ2着、有馬記念でオグリにリベンジを許す2着と走り引退。その輝かしい走りは、大成しないと言われた「芦毛馬の快進撃」(後のメジロマックイーン・ビワハヤヒデなど)の先駆けとして、確かな蹄跡をターフに残していきました。

種牡馬成績に関しては、タマモクロスはGⅠ馬こそ出なかったもののカネツクロス、マイソールサウンドなどの重賞馬が誕生しています。
オグリキャップは重賞馬すら誕生せず、種牡馬としては良い成績は残せていません。これは諸説ありますが、「オグリは気持ちで走る馬だったので、馬体などは遺伝しても気持ちまでは遺伝しない」という評が印象に残っています。
◆ 2頭にまつわるエピソード
次にそれぞれのエピソードや、共通点を見てみましょう。
・オグリキャップ

オグリキャップで1本書けるレベルなのですが、種牡馬としての話をしましょう。
オグリの父ダンシングキャップはアメリカの生産馬で、1972年に日本へ輸入されます。1978年辺りには100頭を越える馬へ種付けを行いますが、大舞台で活躍する馬は出ず、オグリキャップの際の種付け料は下がりきって30万円だったそうです。
しかしこのオグリキャップが大活躍。ここから逆転かと思われましたが、その後もアオミキャップの1989年の毎日杯3着が精一杯。自身も1987年にこの世を去っています。
ダンシングキャップは欧州での現役時代に5勝を挙げますが、重賞はなく距離も短中距離でした。この内容からか、活躍した産駒も2,000m以下がほとんど。つまり、オグリキャップがいかにレアケースであったのかがこのことから分かります。
また、母であるホワイトナルビーを見ても、オグリキャップ以外は1991年の桜花賞馬オグリローマン(同じく笠松競馬から移籍。中央で桜花賞を制するも、中央勝利はこの1勝のみであった)の活躍のみで、産駒の長距離での活躍がないことも併せて知っておきましょう。
さて、競走生活の成績が優れていても繁殖で活躍できるかは別問題。この話の証明をするかのように、オグリキャップの子どもは走りません。それはGⅢで2着のオグリワン、アラマサキャップが代表産駒になるほどです。
しかし父のダンシングキャップが土壇場でオグリキャップを輩出した歴史があり、オグリキャップにもそれが期待され種付けを続けていましたが、最後まで活躍する産駒は誕生しませんでした。
現在は大変減少しているものの、子孫はまだ残っており血が途切れたわけではありません。近い将来、活躍馬の血統を紐解いた時にオグリキャップの名前を見られる日が来ると良いですね。
・タマモクロス

タマモクロスは素直に8連勝についてお話します。
デビューから3戦目で勝ち上がるものの、4戦目で落馬を経験してからは精神的なスランプに陥り、一時は障害への転向などが検討されるほどでした。
しかし秋にそれを克服すると7馬身差の圧勝。それが連勝の始まりとなり、連勝の勢いそのままに臨んだ初の重賞、鳴尾記念では同世代でクラシックを善戦して終えた1番人気ゴールドシチーもいる中で優勝。一躍世代の上位へ名乗り出ます。
翌年になり阪神大賞典こそダイナカーペンターと同着と接戦を強いられますが、その後の天皇賞春、宝塚記念は見事な完勝。運命の天皇賞秋へと向かいます。
笠松から14連勝中のオグリキャップに中央で7連勝中のタマモクロス、しかも共に過去に大成した例のない芦毛の馬体ということでファンは熱狂。当日は12万人を越える観客と、完全に祭りの様相を呈します。
そしてレースはタマモクロスが予想外の2番手追走。オグリキャップはそんなタマモクロスを見ながらレースを進め、最後の直線でタマモクロスが先頭に変わったのを合図に後方から襲い掛かります。
しかし、あと2馬身を切った辺りから差が詰まらない。観衆の号砲のような歓声が響く中、タマモクロスは完全にレースを支配し、最後は疲れから内によれるオグリキャップを従えて堂々の押し切り優勝。世紀の芦毛対決を完勝で終えました。
その後は9連勝をかけたジャパンカップで海外の伏兵ペイザバトラーに交わされ2着。引退レースの有馬記念でも、最後の激しい攻防でオグリキャップに先着を許す2着という結果で現役生活を終えました。
平成三強(平成初期に活躍した馬)はオグリキャップ・スーパークリーク・イナリワンとされますが、これは翌年が平成元年であったからであり、1988年が平成元年であれば間違いなくここにタマモクロスも名を連ねたことでしょう。
両馬の共通点

そして同室の共通点へと話は変わりますが
・第二次競馬ブームを作った主役
・大型連勝を経験している
・芦毛色の馬である
・這い上がっての大舞台
→(オグリ:地方スタート・タマ:序盤の敗戦の多さ)
・共に年度代表馬に選出されている
→(タマ:1988年・オグリ1990年)
など、ここは非常に多いですね。解説いらないレベルかな…。
大型連勝中の馬がぶつかることは珍しく、1988年の天皇賞秋は毛色に戦績に非常に話題となっていますから、ここの同室は既定路線であったとすら言えます。
芦毛という観点から見ても、タマモクロスがオグリキャップへ、オグリキャップがメジロマックイーンへ、メジロマックイーンがビワハヤヒデへバトンを繋いだ、と言える時代の移り変わりをしていますね。(1988年~1994年)
この「常に大舞台で芦毛馬を見かける時代」の先駆けとなった2頭ですから、この意味合いでも納得の同室です。
また、大食いのオグリキャップに少食のタマモクロスというバランスも良いですね。雑草すら食べていたオグリキャップに牝馬より食べていなかったタマモクロスですから、キャラクターとしての相性もバッチリです。
この史実が、常にタマに食べさせようとするクリークに繋がっているのかも。
結論、この部屋は第二次競馬ブームの主役、芦毛の怪物の同室と考えます。

◆ まとめ
いかがだったでしょうか。楽しんでいただけたなら何よりです。
オグリキャップは調べれば調べるほど内容の濃い馬で、単品での史実回想記事を上げるつもりなので、その際はまたよろしくお願いします。
タマモクロスは天皇賞秋が本当に光っていますね。これは騎乗していた南井克己騎手の功績が大きいのですが、レースの作戦指示は出ていなかったらしいですね。
連勝中に1戦を除き全てで手綱を握った名コンビですから、その絆が呼び込んだ世紀の大勝負での完勝だったのかも知れません。
今回は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。