こんにちは。
【実装考察】第三弾に参ります。きっかけはシリウスシンボリのキャラデザを確認したことでした。
ということで今回は「スピードシンボリ」。シンボリルドルフの祖父であり、ルドルフの母スイートルナの父に当たります。
最後まで一線を駆け抜けた「先駆者」は、後の日本競馬へ大きな一歩を遺してくれた―――――
◆ 競走成績(1965/10~1970/12)
スピードシンボリ | |
生年月日 | 1963年5月3日 |
両親 | 父:ロイヤルチャレンヂャー 母:スイートイン |
性齢 | 牡 27歳没(旧) |
デビュー | 1965年10月3日 |
引退レース | 1970年12月20日 有馬記念 |
競走成績 | 43戦17勝 |
獲得賞金 | 1億6320万7050円 |
GⅠ実績 | 1967年:天皇賞春 1969年:有馬記念 1970年:宝塚記念 1970年:有馬記念 |
※ 日本競馬にグレード制が導入されるのは1984年であり、当時は全てOP競走となります。しかしクラシックや三冠、八大競走など「GⅠ相当」のレースは、今と変わらず最高峰の位置付けでした。
父のロイヤルチャレンヂャーは叔父にナスルーラを持ち、産駒のターントゥはヘイルトゥーリーズン、その産駒はヘイローにロベルトと、代を跨いで良血を証明しています。
幼い頃からスラッとした体躯だったスピードシンボリは、後のシンボリルドルフにも行われる「三元育成」(幼い頃から環境を変えリフレッシュとメンタルを鍛える目的とされる)を施され、心身ともに成長しデビュー戦を迎えます。
デビュー戦と2戦目は4着と結果が出ませんが、3戦目で見事初勝利。その後も連勝し3連勝で3歳を終えると、年が明け弥生賞 (当時はダート施行) こそ敗れますが京成杯で優勝。一躍クラシック有力馬へ躍り出ます。
しかし体調不良に加え馬体が使い減りしていった結果、6月までの4歳戦は全敗。皐月賞に至っては21着という結果でした。しかし3か月の休養を挟むと復調。菊花賞では僅差の2着、暮れの有馬記念では古馬に混ざり3着と健闘して4歳シーズンを終えます。
そして5歳は初戦から天皇賞春を含む重賞4連勝を飾ると、招待されていたワシントンDCへ出走するためアメリカへ渡ります。結果は勝ち馬から8馬身離れた5着と、海外競馬の壁の高さを痛感しますが、この後も海外への挑戦は続きます。
その後は日本へ戻るも疲れの影響か有馬記念は4着に敗れ、年が明けても3連敗と振るわず。これにピークを過ぎたのではないかという噂が立ち始めますが、5か月の休養後はオープンから立て直し3連勝。有馬記念も3着と復調をアピールし、7歳シーズンに向かいます。
7歳に入り重賞で好走が続いたことに加え、重馬場への対応もできたことから海外志向の強かった馬主の和田氏は、秋の欧州挑戦を宣言。これが平地競走では日本馬として初めての欧州、凱旋門賞への挑戦となります。
挑戦結果はキングジョージ5着、ドーヴィル大賞典10着、凱旋門賞11着以下(当時は10着までしか記録されなかった)に終わりますが、この挑戦があったことでメジロムサシ、シリウスシンボリ、そしてエルコンドルパサーの欧州挑戦へと繋がっていくのです。
帰国後は遠征の疲労が著しく引退も視野に入りますが、放牧で回復が見られると師走の有馬記念に出走。この年の菊花賞馬であるアカネテンリュウとの競り合いになりますがこれを制し優勝。4年目の挑戦でついに有馬記念のタイトルを手にします。
本来はここで引退予定でしたが、この時点で翌年に国際招待競走の開催(後のジャパンカップ)予定が立っており、そちらへの出走を目的として翌年も現役を続行します。
※ 結局この開催は見送りとなり、ジャパンカップ創設は1981年まで待つことになる。
最後の年となる8歳シーズンも衰えは見せず、オープンで1度7着に敗れた以外は3着以内を確保。6月には宝塚記念を優勝します。引退レースとなった有馬記念も、再度競り合いとなったアカネテンリュウをアタマ差凌ぎ、有馬記念連覇というの最高の形で引退となりました。
2度の年度代表馬選出、重賞12勝、平地競走の欧州初挑戦、有馬記念5年連続出走(最後の2年は連覇)と数々の偉業を成し遂げたスピードシンボリ。8歳(現7歳)まで名ステイヤーとして活躍した同馬は殿堂入りを果たしますが、これは当然の評価と言えるでしょう。
シンボリルドルフの誕生は引退から約10年後。素晴らしい祖父の血は、間違いなく皇帝へと受け継がれています。
◆ 実装済みのウマ娘との関連

当然、関連と言えばシンボリルドルフの祖父ということになります。
ということはトウカイテイオーからすると父母父に当たるわけですね。因みにウマ娘で一番の先輩はマルゼンスキーですが、それより更に11年先輩になります。
※ トキノミノル(1948年生まれ)は除く。ついでにノーザンテーストは1971年生まれ。
ライバルは史実に照らせば4度やりあったアカネテンリュウで間違いないです。
ウマ娘で考えるならメジロアサマという馬が最後の有馬記念で共に走っており、この馬自身も大舞台で好走している(安田記念・天皇賞春で優勝)ため、ここにライバル関係を見ることができるかも知れません。
そしてこのメジロアサマは、メジロマックイーンの祖父としても血統表に残っています。こう考えるとテイオーとマックイーンのライバル関係も祖先から繋がってきて面白いですよね。
◆ 実装の可能性を考えた理由

スピードシンボリを取り上げた理由ですが、まとめると以下になります。
・シンボリの馬主様から許可をもらえている(ルドルフ、シリウスなどの実装から)
・今後に海外レースの実装がある場合、シンボリで凱旋門賞初挑戦はキャラが立つ
・使用した場合に、先述した理由でメジロとの因果関係が構築できる
・有馬記念連覇は史上4頭で、スピードシンボリ・シンボリルドルフが共に達成している
一番の課題である馬名使用の許可は大丈夫そうなので、(スピードだけ使用許可が下りない理由をご存知の方はコメントで教えてくださると助かります)以上のプラス要素から実装の可能性に至りました。
現在は国内レースのみですが、シナリオやキャラクターの幅が出てくれば、海外レースの選択肢を迫られる場面が増えてくると予想します。また、短距離GⅠの少なさもこの可能性に拍車をかけると思います。
有馬記念の連覇は、シナリオや目標レースで上手く活用できないかなと思いました。なんならルドルフが「私の祖父の話なのだがね…」とか言って絡めないかなと。
連覇を達成した残りの2頭もグラスワンダーにシンボリクリスエスと、ウマ娘で揃う可能性は十分。後者のシンボリクリスエスもまたシンボリ牧場の馬なので、この馬も機会があれば記事にしたいと思います。
追記:記事を作成しました。ご興味のある方は以下からご一読ください!

◆ まとめ
いかがだったでしょうか。古すぎて分からん! となった方は雰囲気で楽しんでもらえたら幸いです。
馬主の和田氏、主戦騎手であった野平氏は非常に海外へ目を向けていらっしゃった方で、それは後のシリウス、ルドルフにも見ることができます。
特に野平騎手は、引退した後の調教師時代にシンボリルドルフも担当しています。馬主の和田氏とは騎手時代から長年のタッグだったわけですが、最後の皇帝の海外挑戦がきっかけで絶縁状態になってしまいます。
この話はお調べになるか、機会があればまたお話しようと思います。
それでは今回は以上となります。お付き合いくださりありがとうございました。