こんにちは。
今回は質問箱にいただいた内容についての回答記事になります。
いただいたご意見は「ウマ娘たちに設定されている二つ名の由来や元ネタが知りたい」
それでは早速行きましょう。
◆ キャラクター別「二つ名」の由来
・スペシャルウィーク「日本総大将」

今ではお馴染みのジャパンカップは1981年に「世界に通用する強い馬の育成」をテーマに創設された国際招待競走です。賞金も国内で最高額を誇り、創設年から多くの海外馬が参戦しています。
しかし当時の日本競馬は世界から遅れており、創設から10年で海外馬に8度の優勝を許すなど、そのレベルの差は非常に大きなもの。その中で日本の最有力馬は「総大将」と呼ばれ、打倒海外馬の一番手として応援されていました。
そして1999年のジャパンカップ、凱旋門賞でエルコンドルパサーを退けたモンジューが参戦し、1番人気となります。しかし結果は天皇賞春秋を制して臨んだスペシャルウィークが優勝。当時の実況
「やはり日本総大将!スペシャルウィークが勝ちました!」
はその後多くの競馬ファンに浸透し、ついには彼の代名詞と言えるフレーズになりました。
・サイレンススズカ「異次元の逃亡者」

稀代の逃げ馬として知られるサイレンススズカですが、本格化するのは5歳の初戦であるバレンタインSで、これはウマ娘の1期1話でも描かれています。
そしてそこから6連勝した後、沈黙の日曜日へ繋がるのですが、今回は置いておきましょう。
レース実績を通して見た感想として「異次元の逃亡者」と言うことも可能ですが、キャリアの中にそう呼ばれるきっかけのレースがあります。
それが1998年金鯱賞です。
2,000mのレースを果敢に逃げると1,000m通過は58.1。これは非常に速いペースなのですが、最後の直線に入ると差が開いていくじゃないですか。
実況がゴールする前から4連勝と叫ぶほどの圧勝は1分57秒8のレコード記録となり、2着に対して10馬身差以上に適用される「大差」の決着となりました。
その後の毎日王冠はエルコンドルパサー、グラスワンダーと対戦し影も踏ませないことで有名なレースとなっており、非常にドラマの多い競走馬となっています。
・トウカイテイオー「帝王」

ここは名前からと考えていいと思います。皇帝の子として帝王の名を授けられ、(史実の由来もルドルフの皇帝からイメージして名づけられている)実際に無敗でクラシック二冠を達成しています。
※ ルドルフとの親子ダービー制覇は達成した。
その後は度重なる骨折に泣きますが、最後の最後に有馬記念で優勝する姿にやはり「帝王」だったのだと、そう思わずにはいられません。
・マルゼンスキー「スーパーカー」

海外からの持込馬であったこと、当時の1970年代に海外車がブームとなっていたことがマルゼンスキーと重なり、スーパーカーの異名を取るようになります。(モデルの車はランボルギーニ・カウンタックであり、車体の赤が彼女のイメージカラーとなっている)
当時の競馬は国内産でないとクラシックを走れない制限があり、マルゼンスキーはクラシック参加資格がありませんでした。
しかし朝日杯3歳Sで新レコードの大差勝ち。日本短波賞(ラジオNIKKEI賞)でNHK杯優勝、後の菊花賞を優勝するプレストウコウに7馬身差勝ちと圧倒的な実力を示します。
※ 日本短波賞に関しては走りを見て「遊びながら走ってあの差がついてしまった」と評す記者もいた。
出走制限がなければどれほど勝利したか分からず、その桁違いの性能を当時の流行に乗せて表現したのが「スーパーカー」であり、マルゼンスキーになります。
・オグリキャップ「アイドルウマ娘」

競馬には競馬ファンが激増する「第一次競馬ブーム」「第二次競馬ブーム」とありますが、オグリキャップは第二次競馬ブームの主役になります。
笠松競馬から中央へ移籍し中央6連勝を含む14連勝。同じ芦毛馬タマモクロスとの激闘、三強時代の形成、燃え尽きた天皇賞秋、ジャパンカップ、そして復活のラストラン。この時代の競馬の中心に、オグリキャップは常に立っていました。
そのドラマに魅せられたファンは非常に多く、競馬場に女性や若者が殺到するのもこの頃から。メディアの影響もあり、オグリキャップは今でも競馬史で1番2番を争うアイドルホースとして記憶されています。
また、1991年にオグリキャップが種牡馬になると、競走生活に加え繁殖生活に興味を持つファンが激増します。この流れに乗り大ヒットを記録するのが、この頃に発売され今なお続編が開発されている「ダービースタリオン」です。
・タイキシャトル「最強マイラー」

タイキシャトルは外国産馬として初めて、1,600m以下のみのレース実績で初めて、年度代表馬へ輝いた馬です。通算戦績も13戦11勝、2着1回3着1回と傑出した内容を誇ります。
語られるのは1998年、フランスに遠征したタイキシャトルとシーキングザパールは、共に現地のGⅠで優勝します。日本の調教馬が欧州で優勝するのが初の快挙でありながら、それがなんと2週連続。これに現地の関係者は大変驚いたそうです。
2021年現在、マイル以下を戦場として年度代表馬に輝いたのはタイキシャトル・ロードカナロア・モーリスの3頭のみ。このことから考えても、タイキシャトルが歴代最強格のマイラーであることは間違いないでしょう。
・メジロマックイーン「名優」

メジロマックイーンの馬名は「冠名+マックイーン」であり、このマックイーンは1960年からアメリカで活躍した俳優「スティーブ・マックイーン」から取られています。
また、名馬に対して作られるJRAポスターのヒーロー列伝コレクションNo.34でも「主演作12本」と煽り文句が打たれおり、これはメジロマックイーンの戦績21戦12勝からきています。
長距離で無類の強さを誇るメジロマックイーンも有馬記念には縁がなく、暮れの大一番での優勝は叶いませんでしたが、最終年に宝塚記念を制覇。「名優」としての意地を見せています。
・シンボリルドルフ「皇帝」

皇帝様です(語彙消失)。いや、説明しますけどね。「冠名+ローマ帝国の皇帝の名」だそうです。ルドルフ一世から名付けたそうで、実際の競走生活が名前負けしないのは本当にすごいと思います。
国内成績は15戦13勝2着1回3着1回を誇る無敗の三冠馬。「同じ相手には負けない」「勝つレースに接戦なし」「1,000m~3,200mで勝利」という隙の無さに加えてGⅠを7勝しており、畏敬の念を込めて「七冠馬」と呼ばれることも多くありました。
ラストランとなるアメリカ「サンルイレイS」では調教師と馬主の仲違い、岡部騎手のルドルフ騎乗時の違和感による回避進言など多くの不安材料がありましたが出走を強行。するとレース中に故障を発生し、左前脚繋靭帯炎との診断。これが引退レースとなりました。
しかし当時は海外競馬が未知の時代。どんなことがあるか分からない中での事態であり、周囲の期待などを考えても陣営にとって非常に難しい海外遠征だったことは記しておきます。
アメリカで途絶えたルドルフの旅路は、順調であれば一体どこまで広がっていたのでしょうね。
・ライスシャワー「黒い刺客」

5歳の春にメジロマックイーンの天皇賞春3連覇を阻止したレースの実況に「関東の刺客、ライスシャワー」といった内容があり、レース後のインタビューもマックイーンを阻止した感想を求められるなど、「黒い刺客」という異名が広がります。
※ 黒は馬体が黒鹿毛であったこと、刺客のイメージカラーが黒で都合が良かったことが推察される
過去にもミホノブルボンの三冠を阻止など、決して良いイメージを持たれていなかったライスシャワーは完全に悪役の扱いを受けます。
ですが7歳の天皇賞春での復活優勝を果たし風向きが変わると、宝塚記念の悲劇で世間の評価は一転。生前の走りを惜しむ声であふれます。しかしその大半は「非業の死を遂げたライスシャワーというドラマに酔いたい」だけのものであり、それに対する疑問の声も少なくありませんでした。
◆ まとめ
日頃の記事で書いている4,000文字で分けました。今回は9/46の紹介です。
最後のライスシャワーに関しては暗い、否定的な内容になってしまいましたが、どう取り繕っても明るい話題ではないのでこの書き方にしました。
菊花賞一つとっても、皐月賞から日本ダービー、京都新聞杯と確実にタイム差を縮めミホノブルボンに肉薄、そして菊花賞で悲願のGⅠ制覇。この事実を素直に発信できていた人が当時どれほどいたのでしょう。
死後に言葉を繕っても、もう届かないんですよね。なら最初から評価してあげて欲しかったな、と。
今回は以上になります。次回もよろしくお願いいたします。